としや‘s ブログ

日々の学びや感じたことをアウトプットしていきます(^^)!

「私の教員人生Part4〜特別支援学校編II〜」

今日は沖縄代表、興南高校の試合がありました。5-0から市立船橋高校がじわりじわり追い上げ、最後はサヨナラ勝ち。惜しくも興南高校は敗退してしまいましたが、沖縄代表として頑張ってくれたと思います。お疲れ様でした。

 

私は隔離期間3日目。少し気持ちも前向きになり、読書、映画に時間を使いました。本や映画の感想についても、またいつか書いていこうと思います。

 

 

さて、教員人生シリーズPart4。今回は特別支援学校編の2回目です。

 

前回は、特別支援学校に勤めて「障がい」が「特別」ではなくなった、とお話しました。

 

3年の期間限定のつもりが、肢体不自由児学校に6年、知的特別支援学校に5年、計11年勤めました。

もともと高校野球の監督になりたくて高校教師になった私。最初の特別支援学校から異動する際には、普通高校を希望しました。何の根拠もなく、戻れる!と勝手に期待していた私ですが、届いた通知はまたしても特別支援学校。この時は、なぜ?なんで戻れない?と正直かなり落ち込みました。当時の同僚からは後々、その頃の私には話しかけられなかった、そのくらい、下を向いていた、と言われました。もう普通校には戻れないかもしれない、3年のつもりで希望を出して、叶わずに、でも6年自分なりに頑張った。なのにまたあと5年...。いろんなことが嫌になるというか、こんなはずじゃなかった、という感じで...。

 

 

それでも時間は過ぎていくんですよね、当たり前ですが。転勤先でやるしかない、与えられたところで...。つぎは知的特別支援学校です。また違う世界。なんとか前を向くように、少しずつ気持ちを整えて、新しい校種で顔晴ろう!と。少しずつ、少しずつ。

 

「知的は楽しいよ〜」と先輩から聞いていたのですが、確かにその通りでした。生徒たちは明るくて、急に興奮して叩かれたり、急に走り出す生徒を追いかけたり、頑張る姿に元気をもらったり。素敵な笑顔に癒されることはほぼ毎日。😊

楽しく過ごせた日々になりました。

 

その11年間の特別支援学校勤務のうち、7年は高等部の進路指導部に籍を置いていました。進路主任も3年担当しました。

 

特別支援学校の生徒たちは、高校卒業後は社会に出ていくのがほとんどです。その進路先はやはり福祉事業所が中心になるのですが、その進路決定に向けて毎年、2回職場実習を行うんですね。進路部の仕事は実習先の開拓や実習の計画、進路決定に関わることになります。授業と並行して、外回りで事業所を回るんです。私はそれが楽しくて好きでした。

 

事業所を運営している方々から障がいに関するいろんなことを学んだり、元気を頂くことも多くて。厳しいことを言われることもありますが、一般企業の方が実習を引き受けてくれたり、協力いただいた時には本当に嬉しくて。😊福祉の方から聞く話もとても素敵な話が多くて、困ってるなら新しい事業所作ろうね〜、と本当に作ってくれる人がいたり。夢をもって事業所経営されていたり。そんな時は本当に凄いな、ありがたいな、と感謝と尊敬の気持ちを持つことも多々ありました。これは進路担当にしか味わえない面白さです😁

 

実は生徒たちの進路を決めるのはなかなか難しいことも多いんです。福祉事業所で働く、もしくは生活する際には、介助や補助が必要になるんですが、その人数は学校と比べると少なく、仕事量も多くて、大変なんです。これは社会的な課題でもあるんです。給料を国などがもう少し補助して支えてくれるといいのですが...。そんな厳しい状況のなかでも毎年、卒業生を受け入れてくれる事業所さんがあったり。本当にありがたかったです。

 

私も保護者や生徒たちが本当に満足できる進路先に案内できたか、というと、そうなっていないこともあったと感じます。

 

世の中が、福祉が、もう少し充実してくれるといいなと思います。

 

 

今日もかなり長くなってしまいました。

この辺で終わります。このシリーズはどこに向かっているのやら😅

 

次回は、11年が教えてくれたこと、って感じでいこうと思います。

 

読んでくれた方、ありがとうございます。

ではまた次回‼️🌈